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季節の境でまた会えたなら

第3章

今吉が駆けて来る。オレンジのシャツに、白いカーディガン、柄のついたコットンパンツというスタイル。本をバンドで束ねて小脇に抱え、髪も長くなり、気がつけばすっかり女らしくなって、緑の木々の下を風のように走って来る。

図書館の前で待ち合わせ、どこへ行くともなく構内をうろうろしたり、どこかに座り込んで話をしたり、それはどうという程のこともないいつもの光景だ。それがいつのことだったのかもうわからないし、いつのことでも、順番が入れ替わっても、全く何の影響もない日々だ。しかし、彼女は瑞々しかったし、彼はそれで心安らいだし、色褪せることはないであろう程新鮮な香りのする日々だった。彬人が大学に入ってもう1年が経っていた。一緒に合格した今吉は、憧れの先輩に振られたんだか知らないが、入学して半年程経った頃どういう訳か彬人の彼女になってしまった。大学に入ってみると意外に彼女はもてるのでやきもきさせられないことも無かったが、大概にして平穏で幸せな日々だと思っていた。
彼女の微笑んでいる姿、しゃべったりむっとしたり、全てが生命力に溢れている表情を見ていると、まるで世界がそこだけ切り取られたように明るく、鮮やかに感じられるのだった。

一限が休講になった日、朝いつもよりのんびり家を出た。そして何気なく電車に乗り、何気なく空いている席に座って、何気なく顔を上げると、そこには一年前に見慣れていた女性の姿があった。思わず一瞬辺りを見回す。
ダイヤが改正してしばらく経つので気付かなかったが、この電車は浪人時代予備校に通っていたのと同じ時間の電車だ。しかし、今日は月曜日。以前は火曜と木曜に見かけたけれど・・・。
慌ててもう一度彼女の方を見た。彼女は彼の左斜め3人先に立っていて、彬人には気付かない様子で一心に新聞を読んでいた。その横顔はあの頃と変わらず、ややつんとした感じの目鼻立ちで、化粧が濃かった。髪型もあまり変わっていない。白い春コートの下にグリーンのスーツが見える。
目が合うのを恐れて、彬人はまた下を向く。彼女に見つかったら、彼女はどういう反応をするだろう。あれから一度も顔を合わせていなかった。もう彬人のことなど忘れているかもしれない。
そう思いながら、終点に着いてもわざとゆっくりして、乗り換え階段が空くまで待っていた。それからもういいだろうと思い、ホームに降りると・・・。

いや、それは彬人の予想通りだったとも言える。喫煙所に、彼女はいた。新聞を小脇に抱えるようにして、いつかのように手はコートのポケットへ。少し寒そうに彼女はいた。そして、すぐに彬人に気がついて、絵に描いたように驚いた表情をした。
しかし彼女は何も言わず、しばらくぼんやり彼を見ていた。もしかしたら彼の顔は覚えていても、彼が誰だったか思い出せないのかもしれない。そう推測しつつ、会釈をして、しかしちょっと満足して去って行こうとした途端、彼女は彬人を追いかけて来た。それから思い直したように引き返して、手に持っていた煙草を灰皿に押し付けると、またついて行こうと走り出して、その必要が無いことにすぐ気付く。彬人はすぐそこに立ち止まって待っていた。彼女は子供のようなあどけない表情で笑った。

蓼川の南口に有る喫茶店。今日19時にという約束で待ち合わせた。初めて来た所でやや緊張していた。彼女が来なくても来るまで待っているつもり。だが自動ドアの前に立つと、すぐそこに既に彼女がいた。コートを脱いで、薄い緑色のスーツ姿だ。彼女にはとても似合っていた。考えてみたらちょっと意外なことに、指輪もイヤリングも、アクセサリーは一切付けていない。そういえば香水の香りもしない。
「こんばんは。」
このあいさつは初めてだ。こんばんは。彼女も笑ってそう言った。
「ごめんね、予定とか無かった?」
彼女は彬人がコートを脱ぎ終わるまで立って待っていた。いいえ、と緊張しながら彬人は言う。考えてみたら、何をしに来たのだろう。彼女にどういう気持ちが有るというわけでもないのに。
すぐにウェイターが来たのでメニューを見る暇も無くコーヒーを頼み、腰掛ける。彼女の前には丼のようなものが有って、中にはなみなみと薄茶色いものが。何かと思ったらカフェオレらしい。両手を温めるように彼女は器に手を添えていた。
「まずは、入学おめでとう。かなり遅くなっちゃったけど。」
「ありがとう・・・伝える機会が無くて。あなたのこと気になってたんですけど。」
そう言ってから彬人は、最後の言葉が余計だったんじゃないかという気がして冷や汗をかいた。そんな彼の気持ちが伝わったか伝わらなかったか、彼女はふふと笑って、
「また会えて嬉しいわ。」
と言った。
「それでね、どうしよう?前言ってたでしょ。」
「え?」
「ほら、お礼がしたいって。」
「ああ・・・。」
実のところ彬人はそんなことをすっかり忘れていた。はっきり憶えていたら、お礼を期待しているみたいで返って来づらかっただろうと思う。ふいうちだったので何と言ったらいいのかわからない。どぎまぎしてると、憶えてなかったの?とちょっと面白いものでも見つけたかのように彼女は笑った。
「じゃあ何しに来たのよ。」
本気で面白かったらしく、彼女はお腹を抱えて笑い出した。一瞬馬鹿にされているんだろうかと不快になったが、彼女の笑顔がとてもかわいらしかったのでその気持ちも消えてしまった。それにしても、名前も聞かず、ちゃんと会う手はずも整わないままにしておきながら、本当にお礼がしたくて一年も彬人に会いたいと思っていたのだとしたら、やはり彼女は何というか、世間一般からするとどこかずれた人だと思う。だが初めから彼女はどこかずれた人のように見えてはいた。そこに惹かれるものが有ったとも言える。
「で、どこ?」
「え?!何が」
「どこの大学行ってるの?聞いちゃいけないかな。」
やや落ち着きを取り戻し、彬人は大学名を告げる。そこそこの大学なので、感心したようにへえと彼女は言って、カフェオレをすすった。
「将来は弁護士?お医者さん?」
「そんなんじゃないです。」
苦笑。
「あら、残念。」
何が残念だか知らないが、彼女が本当に残念そうに言うので、彬人もつい笑ってしまった。
「それでね、お礼のことなんだけど」
「いえ、それはいいですって。僕は何もしてないですから。」
彼女は首を横に振る。頑固なんだなと思ったが、違うの、と彼女は言った。
「あの後ね、病院行ったわ。」
あの後。確か彼女はそのまま折り返しもと来た道を帰って行ったんだ。電車が出るまでは彬人も付き添っていたが、家族に連絡したから大丈夫だと言うので、顔色もよくなって来ていたし、そのまま別れてきたのだ。知りあいでもないのに家まで送るわけにもいかなかったし、だから彬人は謙遜でなく本当に何もしていなかった。
「ほら、秋多病院。今富士通が建って電車からは見えなくなったけど。」
彼女が乗ってくる武蔵日枝の駅の側に有る総合病院だ。
「そこで、病気がわかったの。早期発見。よかったわ。大した病気じゃあないんだけどね。あなたが仕事休んで病院に行けって言ってくれなかったら、私病院なんて行かなかったわ。」
ちょっと驚いて、彼女を見詰めたが、彼女のいたづらっぽい目付きで、本当に大したことはなかったんだなと思う。
「だから、ありがとう。」
ふーん・・・。意外に律義なんだな、というのが率直な感想だ。
「もう治ったんですか?」
彼女は笑って何か言おうとした。

その時、突然自動ドアの方から風が吹き込んで来て、彼女が彬人越しに視線を動かした。
「エイコちゃん・・・。」
振り向くと、サラリーマン風の若い、背の高い男性が、こちらを見て立っている。
ただならぬ雰囲気に、彼女の方を見ると、彼女はそれでもあまり表情を変えず、黙って男を見ている。男も何か言いたげだが、周囲を気にしてか、何も言わなかった。しかし目は真剣そのもので、苦しそうな、怒ったような、思いつめた表情をしていた。
彬人は、自分は席を外した方がいいんじゃないかとやっと気付いて、立ち上がろうとした。するとその時、
「いいのよ、アキヒト君。」
彼女が突然自分の名前を呼んだので、彬人はぎょっとして動きを止めた。あれ?そういえば自己紹介はまだだったよな・・・。
「後で連絡して。番号変わったから。」
彼女は男に向かってそう言いながら、紙とペンを取り出し、携帯番号らしいものを書き込んでいた。
「エイちゃん。」
彼は紙片を受け取ってもなかなか立ち去ろうとせず、彼女の方を見ていたが、やがて彬人の方に向かって邪魔したね、と言うようにちょっと会釈して、出て行ってしまった。
彬人はハラハラして見ていたが、ようやく気をとりなおして、彼女の顔を見た。彼女はもう既に平常の様子で、カフェオレの器の模様を、観察するように指でなぞっている。
あの、と彬人は声をかけ、もう帰った方がいいのではないかという意思を伝えようとすると、ようやく彼女、英子さんだか、栄子さんだか、彼女は彬人の方を見て、笑いかけた。
「ごめんなさいね。知りあいなの。気にしないで。」
そう言われてもかなり気になる。彼女はばつが悪そうにまた視線をそらすが、笑顔はすっかり戻っていた。とりあえず話題を変えようと、彬人は先程気になったことを言ってみる。
「あの、僕の名前・・・。」
あっ、と彼女は思い出したように笑って、恥ずかしそうに、
「ごめんなさい。アキヒトくんでいいんだったかしら。塾のテキストに書いてあったから。」
「あ、ええ、はい・・・。」
そういえば、予備校では皆同じテキストなので、紛れないように、ちゃんと名前を書くようかなりうるさく言われていたのだ。電車の中でそれを広げていたのだから、人に見られていてもおかしくはなかった。それにしても、見ていたとは!
本当は「あきと」なのだが、よく間違われるし、死んだ祖父だけは彬人を「あきひと」と呼んでいた。だからアキヒト、でいいと思った。彼女の声にはその方が似合っているような気もした。アキヒトくん。心の中で繰り返してみる。
エーコさんには恋人がいたんだ。
多分彼がそうなんだ。
そうだよな。
きれいな人だし、いたっておかしくない。
ゆっくりとそう自分に確認するように考えてみた。何の問題も、何の矛盾もそこには無い。自分が今吉と付き合っているように、エーコさんも誰かと二人の世界を持っているのだ。当然のことだった。そのはずなのに、何かが心の中で震えていた。とはいえそれは必ずしも失望とかいうマイナスのものではなく、何か優しい、喜びのようなものでさえあった。砂糖の袋を折ったり伸ばしたりしている彼女が、なんだか眩しかった。

その晩今吉から電話がかかってきた。彼女は弓道部に入っていて、部活の新入生勧誘やら、その資金調達の為のバイトやら、忙しいらしく、毎日会うことはできなかった。彼女に隠さなければならないことをしているわけではないが、黙って他の女性と二人で会ったことにやや後ろめたさを感じていたせいか、今日はいつもと様子が違っていたのかもしれなかった。
「アキト、何か変。」
彼女は最後にそう言って、電話を切ってしまった。
「アキト、何か変。」
切れた電話を見詰めながら、今吉の言葉を心で繰り返してみた。
「ゴメン、ちょっと眠かったから、あんまり話聞いてなかった」
携帯メールを送る。
「もー。アキトいっつもうわのそらなんだから」
いつもじゃないだろ?
「ごめんったら。」
「ゆるさなーい」
本気で怒ってるんだかどうなんだか。
「明日会おうよ」
(返信なし)
「水曜部活だっけ?昼は?」
「お昼はサークルの子と食べ行くの」
「じゃ、明後日。」
(返信なし)
「機嫌直してよ。おごるから」
「ほんと?ラッキ☆。近江亭のスペシャルスパゲッティミニパフェ付が食べたーい」
これだよ。
思わず笑って、そのまま彬人は携帯を鞄に投げ込む。
それからエーコさんのことを思い出していた。


つづく

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