1/6
季節の境でまた会えたなら

第1章

8時9分発の上り電車はこの田舎では通勤ラッシュも一段落して比較的空いている。でもがらがらという程ではなくて、彬人の乗る武蔵松戸駅の次、武蔵日枝駅あたりから乗る客は大抵座ることができない。
彬人はいつも9時半から始まる予備校の授業の40分前に着き、予習や復習をするようにしていた。いつもの電車のいつもの場所に座り、古文文法の参考書にチェックを入れながら、古典文法に思いを巡らしていた。だが、その時間はかなり短い。2分ほどで電車はブレーキをかけ、するすると武蔵日枝のホームへ入っていく。今日も滞りなくあまりに強制的に彼を運ぶので、一瞬彬人の心臓はどきりと鳴るが、すぐにまた参考書に見入って、平静を取り戻そうとした。
火曜日。今日はいる日だ。
電車が音を立てて止り、扉が開く。同時に、大勢の客が乗り込んで来た。その中に交じって、茶色のクラシカルなコート。いた。
彼女はいつもの駅のいつもの扉から入って来て、いつものように、座っている彬人の前に立つ。黒い手袋をして、黒いショルダーバッグ、そして真っ白な手編み風のマフラー。細いかかとのハイヒールに、肩より短く揃えた髪に、いかにもOL風のパーマ、真っ赤なルージュが印象的だ。やや眠そうな目で手袋を片方はずし、バッグから文庫本を取り出す。そのいつも変わらぬしぐさを気配で感じながら、彬人は本の上に顔を伏せていた。

初めて彼女を見かけたのがいつだったのか、実のところ記憶に無いのだが、彬人が今年大学受験に失敗し、浪人生活が決まり、最寄り駅から30分で行ける蓼川の予備校に通うようになって、時々電車で同じ女性が自分の前に立っていることに気付いてから、なんとなく意識するようになった。ある時何気なく窓の外を漂っていた彼女の視線が彬人の視線とぶつかったことがあった。美人だ、と思った。初めてじっくり顔を見たが、一瞬彼を見詰めた強い視線に釘付けになった。
やがて彼女が火曜と木曜に同じ電車に乗ることがわかり、夏を含めて、寒い季節は多分コートの下に、いつもエレガントなスーツをとっかえひっかえ着ていることがわかり、数ヶ月経っていた。それだけのことだった。
そんなことにかかわらず彬人は授業を受け、自習室の席取りをし、模擬試験を受け、受験校を絞り、季節は巡り、また冬は来た。それは、そのいつも会う女性にも同じことだっただろうと思われた。彬人の存在にかかわらず、彼女も彼女の生活をしているのだ。この一年が終われば、願わくは、彬人も大学に入り、この電車に乗ることも多分無くなり、この女性と会うことも無くなるに違いない。この女性はもしかしたらまた来年も火曜と木曜この電車に乗り続けるのかもしれないけれど・・・。寒い12月だった。

大丈夫ですか、とつぶやく声が聞こえた。はっとして首を上げると、例の女性が吊り革につかまって、ハンカチで口元を押さえている。異様に顔色が悪い。隣にいた中年男性が異変に気付いて声を掛けたのだった。
「大丈夫です。」
と、か細い声。彬人は、初めて彼女の声を聞いた。と同時に彼は立ち上がっていた。彼の隣に座っていた茶色い髪のOLが腰を浮かそうとしているのを制するように、彬人は威勢良く立ち上がる。どうぞ、と、参考書を丸めながら場所を女性に譲った。
女性はちらっと上目遣いに彬人を見た。下から見上げるよりほっそりした顔だった。高いハイヒールでも彬人より大分背が低かった。すみません、と彼女は言って、今まで彬人が座っていた場所に腰を下ろす。背の高い彬人が鞄を抱えて座っていた時よりも、明らかに周りも座席に余裕ができたようだった。そのまま彼女はバッグを抱えるようにして目を瞑っていた。

程なく終点の蓼川駅に着いた。人々は降りて行く。女性の両隣は次々立ち上がって、女性だけが取り残されていた。彬人も出ていこうとして、躊躇っていた。
後悔するかもしれない。
そう思ったら彼の足はその場から動かなくなった。
振り返ると、またしても躊躇いがちに女性のそばに寄る。彬人が声を掛けようとしている様子が周りの乗客にわかったのか、皆安心して行ってしまった。自分の他に彼女の心配をする人がいないのを確認してから、ようやく声をかけてみた。と言っても、知らない女性に声をかけたことなど初めてで、かなり緊張して声が不自然だったかもしれない。
「終点ですけど、駅員さん呼びましょうか?」
女性ははっと顔を上げ、彬人の顔を見た。
そういった出会いだった。

その時はそのまま特に何事も無く別れたが、また木曜に彼女はいつも通り電車に乗って来た。彬人はほっとしたが、同時になんとなく照れくさくもあって、電車に乗った時も、いつもの席に腰掛けるかどうか迷ったくらいだ。
彼女は彬人を見つけると、やはりちょっとぎこちなく会釈をして、またいつものように文庫本を取り出して見入っている。彼女に興味をもとうとしているのを自分で感じつつ、自分が受験を目前に控えた身であることを思い出して、じっと参考書に視線を釘付けにする。
でも、もう彼女は大丈夫なんだろうか?体調が悪いなら席を譲った方がいいんだろうか。でも、外見は何ともなさそうなのに若い女性に席を譲るなんて、不自然なんじゃないか・・・。そんなことを考えている内に、何も頭に入らないまま蓼川に着いてしまった。だめだだめだこんなことじゃあ・・・。
うつむいたまま本をしまい、鞄を肩に背負いながら威勢良く立ち上がると、目の前に人の頭があって、ぶつかりそうになり、ごめんなさい、と言ってあわてて後ずさった。
乗客がぞろぞろと扉へ向かっている中、なんと例の彼女が、さっきからいたその位置にそのまま立っていたのだ。
見ると、彼女は彼を見上げていた。そしてどぎまぎしている彼に笑いかけた。
「学生さん?」
「あ、浪人生です。」
「そう、この間はありがとう。」
「いえ、何もしなくて・・・あの、もう・・・」
「もう大丈夫。」
思いがけず話し掛けられて、彬人はかなり緊張していた。焦って何を言えばいいのか、何をしゃべっているのかわからなくなった。
それからしばらく彼女が黙っているので、どうしていいかわからなくなり、彬人は時計を見る。8時44分。自分はいいけど、彼女は会社に遅れるんじゃないか?そう思って見ると、彼女はまたにっこり笑って、それじゃ、と綺麗にターンすると、電車から飛び降りた。走り去る姿があまりに華麗で、この人はどんな時にもとてもうまい去り方をする人なのではないか、と彬人は自分でもよくわからない印象を受けた。しばらく立ち尽くしていた。

次の火曜日は25日だった。クリスマスだ。しかし、受験生にクリスマスも正月も無い。この週から予備校も特別講習が始まって、彬人は毎日通うことになっていた。授業が無い日は自習室でひたすら過去問を解き、単語を覚えるのだ。灰色といえば灰色かもしれないが、とりあえずもうすぐ終わると思えばそれほど悪いものではない。英単語の本にチェックを入れながら、今日も彼女が来るのを待っていた。しかし、武蔵日枝に着いても彼女は乗ってこなかった。もちろん、別の車両に乗ったのかもしれないし、これまでもいつも通り乗ってこない事は度々有った。逆に彬人が同じ場所に乗らなかったり、たまたま席が空いていなかったりしたこともよく有った。だが、この間の事が有ってどうしてか彼女のことが気になってしまった。
次の木曜にも来ず、とうとう年末となり、彬人も予備校に行かず家にこもるようになっていた。そうしてみると集中できたし、成績は快調だし、やがてまたいつもの自分に戻っている事に、彼はほっとしていた。
そうだ、今まで話したこともない、どこの誰ともわからない女性に関わるよりも、今彼にはするべきことが有った。人生の大事な一時期だ。恋愛など後からいつでもできる。今年こそ大学に受からなければならない。そうなると自分のとる道は一つだ。焦っているつもりはないけれど、人生にはそうしなければならない時機というものがあると彬人は思っていた。だから、今は次々目の前に提示されるものをこなしていくだけだ。つらいことなど何も無かった。流れに従っている方が楽、でもあったのだけれど。

年が明け、彬人は電車の車両を変えてしまった。私大の願書を2つばかり書き、センター入試を終え、2段階選抜、いわゆる門前払いの足きりにもかからずクリア、第一志望の国立二次試験に出願した頃には、受験以外の事は全く彼の頭から抜けていた。ただ人生を駆け抜けていくだけだ!
ところが、それは2月の頭だった。自習室でがりがり勉強すべく予備校へ向かった彬人だが、電車を降りて、階段へ向かって歩き出した途端、意外な光景にぶつかった。階段へ向かう途中、喫煙所があるのだが、なんとそこに、あの女性が立っているではないか。焦って一瞬目をそらそうとしたが、もう見つかっていた。彼女は肩をすくめて両手をコートのポケットにつっこみ、たばこをくわえていたが、彬人を見つけると、素早く煙を吐き出し、たばこを灰皿に押しつけた。
乗り換え階段は狭くて混雑し、いつものように長蛇の列、さっさと行ってしまう事はできなかった。仕方なく彬人は立ち止まって彼女に会釈する。彼女がたばこを吸っていたということが意外で、ちょっと幻滅したような、反面それくらいは余裕で受け入れる自分自身の度量でありたい気持ちもあり。彼女は不安定なピンヒールで、髪をかきあげるようなしぐさをして、想像に反して、あまり愛想のいい笑顔ではなく、やや社交辞令のような、気取った作り笑顔で彬人に笑いかけた。そして、
「おひさしぶりです。」
と一言。彼女も彼に対してどういう態度をとったらいいのかわからないらしかった。しかし彼女は多分彬人よりは世間慣れしていて、どんな人に対しても愛想笑いくらいできるのだろう。そう思うと彬人は少し嫌な気がした。
「えっと、もうすぐ試験じゃない?」
彼が受験生であることをようやく思い出したらしい。彼女はなんとなく彼と一緒にのろのろ歩き出した。
「明日一つ入試が有ります。」
「へえ。がんばってね。」
それ以外言う言葉など無いだろうなと彬人も思った。しかし、次の言葉は彬人も全く予想していなかった。
「試験が全部終わったら、この間のお礼をするわ。どう?」
「え?!どうって・・・。」
彬人がたじろいでいると、先程のたばこで喉の調子が悪くなったのか、女性はちょっと咳込みながら、何でもない事のように言った。
「かえって迷惑になったら嫌なのよ。でも、もし迷惑じゃなかったら、浪人生くんにお礼がしたいなと思って。」
お礼・・・。正直言って彬人はあきれていた。ひょっとしてちょっと軽い人なんじゃないか?化粧は濃いし、派手な態度を取りたがるし。・・・だが、彼もこれまた正直言って興味が無い事も無い。そして世間一般の軽い女性とは何か異質な、あるいは不器用そうな性質を彼女に感じていたのだ。
「お礼って・・・?」
苦笑いしながら言うと、彼女はちょっと考えていたが、さすがにとっさには思い付かなかったらしく、二人は改札の前まで来てしまった。
「私は乗り換えなの。きみ、ここで降りるの?」
「そう・・・。」
「わかったわ。じゃあ、いつかまた同じ電車で会えるかしら。」
「どうかな・・・。もう授業無いし、受験終わったら来ないですから。」
彼はどうにかはぐらかしたかった。それは彼女に対する嫌悪というより、何か自分の知らない人生に対する恐怖、そしてそこへ引かれていく自分に対する不安のようなものでもあった。
「会えなかったら仕方ないね。もし会えたら、きっと運命なんだから、また会いましょ。」
彼女は何が可笑しいのか自分の言った事に照れたのか、くすくす笑う。そしておもむろに手を振って、軽やかな足取りで駆け出し、4番線上りホームの降り口に飛び込んだ。
残された彬人は、何が起こったのか混乱してしばらくぼんやりしていたが、やがて定期券を自動改札にかざして通りぬけた。見ると、定期の期限は2月28日までだった。試験までもうすぐ。
しかたがない。苦笑した。彬人は何かふっきれたような気がして、軽い足取りで予備校へ向かって歩き出した。



つづく

NEXT
トップに戻る written by Nanori Hikitsu