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第二話:存続の危機編.8


自殺パンをご存じない方はこちら

ゼロ、八。少し爪が長いので、うまく押せないでいる。ゼロ、ゼロ、ゼロ。あ、押し過ぎ・・・キャンセル。ゼロ、八。押せた。それから、どうしたら・・・。
「決定ボタンを押すんですよ。」
振り返ると、背の高い男性がいた。顔を上げてもまだ顔が見えない。更に首を上向けると、目があった。彼は笑っていた。
「このパン、このロールケーキでいいんですか?」
若い男性は08番の棚にあるパンを指さした。
セーラー服にお下げの彼女は、眩しそうに男性の顔をもう一度見ると、
「はい。」
と言った。それから自販機に目を戻し、彼の言っているボタンを探した。すっと横から人差し指が伸びてきて、「決定」ボタンを押した。また振り返ると、若者は笑いかけていた。
「白藤の制服だね。この大学受けるの?」
「え、いいえ。大叔父がここの教授で。寄るように言われたので。」
08番の棚がういーんという音と共にスライドして、ロールケーキが崖っぷちまで押し出された。あっ・・・思わず身構えてしまったが、パンはガラスケースの中で、下まで落っこちた。
「乱暴でしょう。潰れちゃったかな。下から取り出すんですよ。」
彼女は慌てて座り込み、ガラス戸を押した。思ったより力が要ったので苦労しながらパンを取り出す。
振り返ると、若者はまだ笑っていた。
「ありがとうございます。」
彼女はちょっと潰れかけたロールケーキを胸に抱いて、丁寧に頭を下げた。
「どういたしまして・・・。教授のところへはもう行きましたか?場所はわかりますか?」
「いいえ。これから。あの、文学部の桜木教授ってご存じですか。」
「へえ、それは偶然。僕の担任ですよ。担任、って言っても学校の制度の名目のようなもんで、実質的には何の意味も無いんですけれどね。でも僕は、先生のゼミに入りたいと思っています。万葉集に興味が有って。」
会話が、だんだん白いもやに包まれるように、遠くなっていった。それは遠い幸せな思い出。忘れかけていた日々の出来事だった。

桜木優子さんは、目を開ける。既に日は高く、枕元の時計を見ると午前八時を回っていた。いけない、と急いで起きて着替え、電気湯沸かしポットにお湯が沸いているのを確認して、顔を洗う。トーストにジャムを塗って紅茶で流し込むと、一人暮らしのアパートから飛び出した。学校までは歩いて八分。九時からの一限目に悠々間に合う時間だった。彼女はなかなか忙しい生活を送っている。理系の彼女は朝から夕方まで授業が詰まっていて、その後は連合の仕事。夕べも夜遅くまで自宅でサークル関係の業務を処理していたのであった。時間の有る朝はカーラーで髪を巻いている。だが時間のない朝は今日のように自然に後ろに流している。長い髪は朝の既に照りつけ始めた日光を受けて輝いていた。梅雨が終わってしまったのかと思うくらいいい天気だった。

学校に着くと、午前中は有機化学2、化学熱力学2の授業を受け、午後はまるまる有機化学実験。他の曜日も月曜から金曜まで構成としては似たような感じで、非常にシンプルなライフスタイルとも言える。一、二年の教養部の頃はもうちょっとごたごたとして、例えば万葉集の授業を取ったりもしていたけれど・・・。
授業が終わったら学生連合の仕事の為に、学生棟の一室に籠もり、招集が有れば会議。彼女のデスクにはパソコンが貸与されていて、ネットワークで繋がっており、役員同士のおおよその動向は把握しあっていた。
サークルの毎月の報告書を表に打ち込んでいると、ピカピカと小さなウィンドウが開く。メッセンジャーだ。桜木さんは部屋に誰もいないのをいいことに、軽く舌打ちをして、「りょ」で単語登録している「了解致しました」を打ち込むと、退席。
キャンパスで唯一の近代的なビルは三階までしかないが、落ち着いた雰囲気の外観で、時計塔にもなっている。その三階に学生連合会長の部屋は有った。
「失礼します。」
桜木さんは細身のスーツ姿で、パンプスを絨毯の中に踏み込む。やあ、と祐天寺会長はちょっと機嫌良さそうに挨拶した。
「その後どうかなと思って。」
フォークダンス部のことだ。急ぐ話でもないしそんなことメールで済ませばいいのかもしれないが、いつも気を付けて消さない限りメールが残ってしまう危険を考えると、桜木さんはしょっちゅう呼び出されねばならない。いつものお決まりアイテム、飲んでもいないブランデーのボトルとグラスはあいかわらず会長のデスクの上に乗っていて、ふと見ると彼の袖口にはカフスボタン。初めて会った時から趣味は変わらないらしい。そんなこと桜木さんにはどうでもいいことなのだけれど。
「特に、何も変わっておりません。でも、放っておけば、あと二ヶ月で自然消滅です。何故そんなにお急ぎなんですか。」
「迅速に事を運ぶのが好きなので。」
「それで、人の仕事に干渉されるのもご趣味ですか。」
会長は黙って笑っていたが、何も言わない。
桜木さんはふいとヒマラヤ杉のてっぺんが見える窓辺に寄って、大きなガラス越しに外を眺めた。
「でも、桜木君。君に何かいい具体案でも有るのかな。自分で強引な手を使うのを避けたがってるようだったから、協力しようとしているつもりなんだけど。」
「あなたはあの時約束を破った。だから信用できません。」
桜木さんは突如振り返り、じっと、会長の目を見つめた。今日は彼女は笑っていなかった。会長は笑っている。だが、何と言っていいのか困ったようにモンブランのボールペンを指でくる、くると回している。ちょっと機嫌を悪くするとこうなる。この方何年か自宅浪人でもしていたのかしらと会長のその器用な手つきを見て意地悪く思う桜木さんであった。
「・・・約束を破ったわけじゃない。彼の退学は僕も予想外の事態でね。学生連合は彼を守ろうとしたんだよ。前会長の時代だったけれど。」
「では何故。」
「何度も言うようだけれど、退学は彼自身の意志、というわけ。彼はちゃんと他大学の入試を受けて準備していたし、間髪おかず春には福徳大に入っていた。僕たちも彼がそうするつもりだったとは知らなかった。彼がいるものと思ってわざわざこの大学に来た君にも気の毒だけどね。」
桜木さんは黙ってまた外を見る。ガラスに映った顔は険しかった。結局は、自分のせいでこんなことになったということを自覚していたから・・・。
「僕は君が欲しかったんだよ。」
祐天寺会長はまた少し笑うような、明るさを込めた声で言った。初めて会った時のように。だがこの「対女性用語」に彼女の心中は「はあ?」である。もっと普通の言い方をしろと言いたい。

桜木さんが高校三年生の時、祐天寺は杉並大学一年だった。学生連合の前会長の引退間際、次期会長の座を巡って壮絶な戦いが有ったという。味方や手下を作るのが得意な祐天寺は、有能な部下をかなり早い段階から集め、勢力を拡大していたお陰で選挙に勝利した。当時からありとあらゆる情報を集めて、時には高校生まで自分の部下にスカウトしていたのだった。
桜木さんが通っていた高校は小学校から大学まで一貫した教育をしている、いわゆる郊外のお嬢様学校で、進学校ではない。そのお嬢様の一人が高校一斉模試で突如全国一位に出現したことに祐天寺は関心を持っていたし、その彼女がこの大学の文学部教授の親類であることを知って、更に彼女が美人だったのも重要な要素として、持ち駒の一人にすることを決心したのであった。もちろんそうすんなり行くわけがない。彼女の弱みにつけ込んで、交換条件で釣ったのである。
「私も入学を辞退するべきでした。」
「それは、行方不明になった彼がどこにいるか調査するという交換条件で思いとどまってもらったはずだね。」
「・・・ご丁寧に、福徳大フォークダンス部に入って、そこで出会った恋人がいることまで調べてくださって。」
「ま、楽しくいこうよ。人生長いんだし。」
祐天寺は立ち上がり、雰囲気を盛り上げるように無意味に笑った。
「君は優秀だから院まで行きなよ。お嬢様学校じゃそういう道にも進めなかっただろう?そして、学校を出たら、うちの会社に来ないか。いや是非来て欲しいよ。」
何から何まで祐天寺の思いのまま。世の中恐いことなど何もない。叶わないことなど何もない。厚顔無恥で楽天頭のこの男のようなのが、やっぱり人生の勝者なのだわと思って、彼に負け続けた桜木さんはため息をついた。



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ローマ数字が出ないので有機化学2、化学熱力学2としました。
written by Nanori Hikitshu 2004