ラウンドの女王編p4

定期試験が忙しかったし、存続の危機にあった余所の大学に助っ人で行くのと、それにまた、バイトがあったのとでえりこはそれきりあの葵さんの話のことは忘れていた。
全日本学生ラウンドダンス選手権のことを思い出したのは、夏休みも中盤、S大学主催のお盆祭りパーティの時のことであった。

「踊り、うまいですね」
そう言われてちょっとびっくりした。目の前にいるのは知らない男性。背は高めで、生き生きとした目をした……。一緒に踊っているとき、この人は上手い、と思った男性にそう言われたのである。パーティで、初めて会った男の人と一緒にワルツのカップル曲を踊ったのだ。初めて会ったと言っても、交流のある他大学の民舞の人なので、ほとんどの大学の同期にはえりこの顔見知りがいるし、そういう子達に聞いたら多分知っている人なんだろう。
顔が自然に笑ってしまった。かなり照れる。ちょっとお辞儀をすると、えりこはそそくさとその場を離れた。
えりこはちょっとどきどきしながら同期の子達がかたまっている体育館の壁際に戻っていく。踊っているうちに体育館の中を、まるで流れるプールのように、一つの大きな円周上にどんどん移動していくので、彼女が踊っているところをずっと見ている人はいない。同期の子達とも、今の踊りがどうだったとかいう話はしない。曲が終わると次はもうロシアの民族舞踊がかかっていて、それに踊りに出てしまった友達もたくさんおり、出ていかなかった子は後輩の人生相談を聞いたりしている。パーティはとても刹那的なものなのかもしれない。あれだけの感動が有るけれども、輝いてる瞬間は一瞬なのだ。

タン・タタ・タンタ・タン・タン……

コパニッツァのリズムの音楽が流れてきた。コパニッツァはブルガリア特有のリズムで、11/16拍子の踊りである。めまぐるしく動く難しい曲が多い。だがこの曲は春合宿の時に猛練習したので一応は踊れる。えりこはベルトを掴むと、ベストの上からゆるく締め、同じ学校の先輩達がつながっているチェーンの列に飛び込んだ。そして右にいる人の左腕の下から、その人のベルトのおへその辺りを右手で掴む。右の人はえりこの右腕の上から左手でえりこのベルトを掴む。これがベルトホールドというつながり方だ。そして進行方向は普通右。体育館のフロアに大きな円を想定し、円心(円の中心)に向かって右手、円の反時計回りの方向に進む。チェーンダンスはそれほど長い列にはならず、一番右端に来ることになる先頭の人をリーダーと言った。リーダーが指示を出したらそこにつながっている人はそれに従うのだ。このポジションを取るにはそれなりに踊れないといけない。
この曲は十二のパートに別れていて、憶えるのが大変だった踊りだ。「プロブディフスカ・コパニッツァ」。ブルガリアのプロブディフ地方のコパニッツァという意味。かわいらしい曲調だがややこしくリズムを取るのが結構難しい。ステップ・ステップ・ホップ・ステップ・ステップ。バランスを崩さないように……。

「やっぱりダメだね」
えりこは照れ笑いをしながら同期の所に戻ってくる。
「おつかれ」
同期のめぐが笑いかける。
「次マケスーツ。踊ろう」
めぐは立ち上がってえりこの右手を引っ張った。またわらわらと人が集まって来る。
「マケドニアン・スーツ」を踊り終わると、今度はイスラエルの「エレッツ・イスラエル・ヤッファ」。これはイスラエルの国は美しい、という意味らしい。哀愁のある音楽がとても美しかった。さびの部分を皆踊りながら一緒に歌っている。なんだかえりこから見ても不思議な光景だった。ブルガリアにマケドニア、イスラエル、セルビアにメキシコ、ロシア、ルーマニア、アゼルバイジャン。いろんな国の民族音楽が延々と流れ続ける。こうしていると世間一般のことが夢のような、いや今が夢の中なのか、あらゆる現実から遠く離れてしまったような気がした。

一通り踊りたい曲がかかり一段落ついたので、リクエストが書き込めるホワイトボードの前に行ってしばしたたずむ。えりこは踊りたい盛りの二学年なので、あれもこれも踊りたくて、何から書けばいいのかさえ迷っていた。リクエストタイムにかけられる曲にも限りがあるので、一番踊りたい曲から書いていった方がいいからだ。

ふと、背後に人の気配を感じ、振り返ってちょっとどきりとした。あの先程ラウンドを一緒に踊ってもらった他大の男性だ。ワイシャツにスーツのズボン姿だが、ハンガリーの民族衣装の、ベストを着ていない姿を思わせる。彼もえりこに気が付いて、笑いかけた。いや別に好みのタイプとかいうんではないが、えりこは恥ずかしくなって、黙って会釈する。
それからキャップをはずしたままにしていたペンを走らせ、そそくさと「四トラ」とだけ書いて、逃げ出した。

四トラ、とはその世界では一つの権威である。
省略せずに言えば、「四つのトランシルバニアの男性舞踊」。「ドラキュラ」で有名なルーマニアのトランシルバニア地方の踊りだけれど、この地方に住むのはハンガリー系の民族なので、踊りの種類はハンガリーに分類される。四つの踊りで構成されていて、とても華々しく、高度で、勇壮な踊りで、四つのうちひとつ踊れるだけでも尊敬される。この場にいる八十名程の中でも全て踊りきれる人はいるのかどうか。
えりこが内心わくわくしながらイントロを聴いていると、各大学から数名の勇者が出てきた。あ、やはり。例の先輩が踊りの中に入っていった。
バイオリンにチェンバロ(ピアノの先祖ではなく、ハンガリーの棒で叩く弦楽器)、軽快なリズムと荘厳な音程のメロディ、手で掌や膝、くるぶしを打ち付けるチャパスが、床を鳴らす足さばきが。すごい!思わず息を止めてえりこは彼を見ている。踊りに出ていない男性は踊っている人を見ながら、自分も覚えようと隅で真似している。女性達は品定めの高みの見物。そりゃあ男性舞踊は自分の勇壮さを見せつけるかっこいい踊りだが、男性舞踊なんて女性に惚れられてこそ価値がある……。いくら完璧にフィギュアを覚えていたって、自己満足じゃあ認めないわよとばかり、女性の視線は厳しかった。
だがそんな女性達をも思わず唸らせるほどうまい男が一人いた。……例の男性である。
二番になると踊りを離れる人もいたし、二番になって入ってくる人もいた。例の男性はあいかわらず踊っている。
そして三番。帽子を使う踊り。ここでもメンバーが交代し、三番の途中から踊っているのは例の男性一人になってしまった。えりこは思わず手に汗を握る。地味な部分だが、丁寧な足裁き、奇跡的な身のこなし、たったひとつのステップがとても美しかった。
そして最後の四番。一転曲調が明るくなり、わらわらと(二、三名)人が出てきた。だが人々の視線は例の男性に集まっている、ように、えりこには思われた。ステップ、ターン、チャパス、また回って、テンポよく、手を振り上げて下ろし、ヒールを床に打ちつける。また飛び上がって、回って……。
ジャン、と最後の音が終わると大きな拍手。はっと我に返って、えりこは自分が夢中で見ていたことに気付く。
うまい人がいたね〜とめぐ達が言っているのもまるで遠い世界のことのような気がしたままの状態で、えりこはしばらくぼんやりしていた。リクエストタイム終わったよ、と植津につつかれるまで……。

パーティは終了した。主催者達が壁のプログラムや花飾りを取り外しにかかる。
この後飲み会があるのだが、えりこはこういう他大学の飲み会には行かない。お金がかかるし、だいたい、お酒が飲めないのだ。同期の子達とごはんでも食べて帰る方がいいかなと思っていると、一緒に来ていた植津が声を掛けてきた。
「えりこ、めぐ、まち、飲み行かないの?」
「うん……うえちゃんは……行くよね」
彼女は飲む組。飲まない組のえりこは、同期のめぐやまちや後輩と一緒に既に着替え終わっていていた。植津はまだハンガリーの民族衣装のままである。どこの地方の衣装だかえりこは知らないが、美しい衣装だ。水色の人目を引くスカートの下にはハードチュールで作ったパニエをはいてスカートを大きく膨らませ、対照的に上半身は体にフィットした黒いベスト。ベストには恐ろしいほど精巧な刺繍がしてある。植津は髪をひとつのお団子にし、汗をかいた首筋に後れ毛がぴたりとはりついていた。
「えりこも行こうよ」
「え〜私はいいよ」
そう言ってから慌てて自分の口を押さえる。すぐそこにS大の学生がいた。
今日はS大学民舞主宰のお盆パーティで、もちろん飲み会まで彼らがセッティングしている。是非飲みも来て下さいよと、S大の一年生らしき男の子が声をかけてきた。
「だって飲めないもん……最初受付で飲み会の出欠バツしちゃったし」
「飲まなくてもいいじゃん。女の子はあんまり飲んでないよ皆」
植津が言うと、S大の一年が口をはさむ。
「植津さんは例外」
「なに」
「いや違った。うえさんは男だった」
植津が彼を追いかけて行ってしまったので、えりこ達は笑って、帰ろうと目配せしあった。するとその時、入り口の所からにゅっと顔を出してきた人がいた。
あの男性だった。……先程は上着を着ていなかったので、黒っぽいスーツ姿になるとちょっと印象が違うようにも感じたけれど、先程ラウンドを踊って「うまいね」と言ってくれたちょっと背の高い男性だ。とても大人びた印象で、多分現役ではなく、どこかの大学のOBだろうと思った。その彼がえりこのことを見つけ、なんとなく笑いかけた。
そのとき、あれ、と言いながら先程の一年生が戻ってきた。
「はるきさん、今日は飲みに来て下さるんでしょ」
そのつもりだと彼は言った。えりこは彼と一年生を交互に見る。

……。
どういうわけか、えりこは飲み会の会場にいた。
何度も言うようだが、例のその男性……はるき氏に気があるわけではない。特にかっこいいとか思ったわけではない。口をききたいわけでもない。強いて言うなら……また踊りたい。そうだ、一緒に踊りたい。えりこはそんな風に思っていたのだった。周りは羽目を外しそうになりながらもまだいくらか理性的な飲みをと心がけている雰囲気である。とはいえ、いつ炸裂してもおかしくなさそうな、微妙な空気。えりこがウーロン茶を飲みながら斜め前の席にいるはるき氏をちらちらと見ていると、斜め左後ろから、「ぜんにほんせんしゅけん」という言葉が突如聞こえた気がした。
思わず振り向くと、同期の植津が興味深そうな顔をして、他大学の女の子の話を聞いているところだった。
「華栄は誰か出るの?」
「うちらの大学は出るわよ。大野は?」
「そんな話今知ったよ。次うちが集まるのって、来週なんだよね。」
「出たらいいじゃん。」
冗談でしょう、と笑う声。
そんな会話が聞こえてきたので、そわそわして、思わずそっちへ乗り込もうとした。その時。
「ああ、あれ、大学対抗ラウンド大会のこと、知ってる?」
はるき氏の声がしたので、見ると、彼は驚いたことに、えりこの方を見ていた。
大学対抗ラウンド大会。実に良識的な名称だ。だが正式名称は依然として例の、「全日本学生ラウンドダンス選手権」なんだろうけど……。びっくりして黙っていると、はるき氏の隣の男が知ってますよ!と叫んだ。
「俺出ますよ!パートナー大募集中っすよ!」
「自分の大学か、パートナー校でないとペアが組めないらしいね」
例えばえりこの大野女子の場合、パートナー校としていつも一緒に活動している福徳大生としか組めないということだ。
よその子と一緒に踊れなくて残念だよ、と、はるき氏はつぶやいた。えりこの目をじっと見ながら。
あの、と思わずえりこは口を開いていた。
「どちらの大学の方ですか」
「S大です。四年だけど。君は……」
「大野女子二年の、四宮えりこです」
「春木です。よろしく」
名乗っていなかったことに気付いて、春木氏はえりこに笑いかけながら言った。
えりこと春木氏の会話が始まったので、春木氏の右隣の子が別の席に行ってしまった。
植津の方へ行こうかどうしようか迷っていると、春木氏がえりこの正面にじりじりとにじり寄ってきた。
「いや、正直、あまりそういうイベントに参加するつもりもなかったんだけどね。奴がさ……」
春木氏は、植津達のいる方へ視線を送った。
「うちのパートナー校、華栄女子短大の歌子姫を知ってる?」
「いいえ……」
「あそこの、青い服の子」
「ああ、お見かけしたことは……」
植津達に混じって、細い女の子がおねえさん座りをしている。肘を伸ばして後ろにつき、中華風の細い三つ編みが、座敷の床に届くほど長かった。チャイナカラーのワンピース……。座敷の飲み会の時はロングスカートかパンツが女子の通常の姿だが、その子だけは、スリットこそ控えめだが、短めのスカートをはいているのだった。ちらとだけ見える頬、耳の下の後れ毛、ここから見る後ろ姿だけでも、華が有る……歌子さん、か。
「彼女、えりこさんと同じ二年だけど、指導部長なんだ。彼女がエントリーするって。そして、何故か僕をパートナーに指名してきたんですよ」
普通、四年制大学だと指導部長などの執行部は三年生がなるものであるが、短大の場合自然に最上級生である二年生がなるのである。
「え、それは、まあ、春木さんラウンドうまいから、誰だって申し込みたがるでしょう……」
言いながら何故か赤面してしまう。 ありがとう、と春木さんは笑った。
「えりこさんは? 君も出るんじゃないの?」
「え、あの、まだうちの学校では正式に部員に話が来ていないんですよ。だから、その、来週の強化練習会で詳しく聞けると思います」
そうですか、と春木さんはまた笑った。
「君は出るといいよ。立候補してでも。いや、出て欲しいなと思って。それだけ……」
突然、ピッチャーを持った、春木氏と同期とおぼしき男性が乱入してきた。それまでの物静かそうな様子が一転、受けて立つ春木氏なのであった。
そして、会話は中断され、いよいよ周囲の雰囲気は変わってきた。大音量の叫び声に、カマリン一気(ロシアのカマリンスカヤという曲にあわせて飲む民舞独特のコール)でも始まりそうな勢い、あわててえりこは席を抜け出した。

人の少ない中央線上りに揺られながら、えりこはいろんなことを思い出していた。パーティの四トラ、春木氏の言葉、それから他にもいろいろ……。
飲んでもいないのに、空気に酔ってしまったか、なんとなく頭がぼんやりして、気分がいい。いや、どきどきする……。
ガラスに映っている自分の顔を見ながら、頭の中は……パーティで春木氏と踊った「白い恋人達」が、エンドレスで流れるのだった。

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written by Nanori Hikitsu 2005